@aruka0263

コンセンサス的日常とわたし

「ピクニック・アット・ハンギング・ロック」から 見る「プリシラ」

 1994年にステファン・エリオット監督が世に送り出した傑作映画、「プリシラ」(The Adventures of Priscilla, Queen of the Desert)はオーストラリアの都会であるシドニーに住む3人のドラァグ・クイーンたちがオーストリアの荒野に位置する温泉地を目指して、つまりはオーストラリアの自然な存在になることを目指してバスに乗り込み、その目的地を目指して旅をするというロード・ムービーである。

 この旅路を辿りながら、彼女たちは存在を隠されてきた先住民や、地理的な問題から開拓が遅れた内陸部に住む者たちといった、様々なオーストリアが抱える問題に直面していく。これは、同じように異質な存在である彼女たちを浮き彫りにしながら、オーストリアの時代というものが直面している問題を反映するという意味合いを持っている。そして、この旅を通して彼女たちは、自分たち、ドラァグ・クイーンという存在がオーストラリア社会における「自然」な存在になれないということを悟っていく。

 旅の終わりに、彼女たちはオーストラリアにおける自然な存在である動植物や、構造物になりきり、彼女たちが普段行うショーとは全く別のパフォーマンスを行う。このオーストラリアを礼讃するようなパフォーマンスは旅を通して、自分たちが社会的に異質な「非自然」な存在であると悟った彼女たちが、”どうにか”してオーストラリア社会に同化しようとするというメタファーである。彼女たちはオーストラリアの自然な存在になりきろうとするが、そんな彼女たちに観客たち、つまりはオーストラリアの人々は冷たい視線を送るのである。旅を通して、オーストラリアの自然な存在になれないと悟った「非自然」な彼女たちはそのホームであるシドニーへと目的地を変える。

 我々日本人はオーストラリアの人ではないから「プリシラ」を語るには、その約20年前の1975年に制作された、ピーター・ウィアー監督の「ピクニック at ハンギング・ロック」(Picnic at Hanging Rock)を知っていなければいけない。この作品は、オーストラリアの未開拓なままの剥き出しの自然に、処女の無垢な少女たちが重ねられ、そのままに消えていくと言うシーンに始まる、オーストラリアの人々がその手付かずの自然に対して抱いていた、イメージと言うものを代弁し、また反映する作品となっている。 

 「プリシラ」を思い出せば、この作品のオマージュとなるシーンに気が付くことができる。3人のドラァグ・クイーンたちが手付かずの自然のままの岩場に登り、ホームを叫ぶという終盤のシーンである。「ピクニック at ハンギング・ロック」と同様にして3人のドラァグ・クイーンたちはオーストラリアの風景に重ね合わされるが、オーストラリアにおいて自然な存在である、かの美しき少女たちとは違い、「非自然」な彼女たちは、その大地と同化して消えることなく、それぞれの思う道を辿り、ホームへと帰っていく。シドニーをはじめとした都市部では社会的な地位を獲得しつつあるドラァグ・クイーンではあるが、オーストラリア社会の全体においては相容れない「非自然」な存在なのであると言うことがここからも見て取ることができる。

(あくまでもこの映画の公開時のオーストラリア社会において、現在のオーストラリアは世界的に見ても最も進んだ、様々なるアイデンティティに寛容な多様性社会が成立している)

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ロード・ムービーとしてのワンダ

 1970年にバーバラ・ローデンが監督し、自ら主人公のワンダとして出演した「WANDA /ワンダ」(原題:Wanda) は、無学で社会において弱い立場にあるワンダが自らの全てを失った末に、見ず知らずの男と出会い、その男と銀行強盗を行うというクライム・サスペンス映画である。この作品は全体を通して、ロード・ムービー的でありながら、ロード・ムービーにありがちな壮大さやアウトローな主人公たちという要素を排除し、一切の映画的な表現を行わない。ドキュメンタリーであるかのように撮影され、物語はあくまでも実際的に現実の中で描かれ、物語の真実性というものを高めている。この作品は完全なロード・ムービーではないが、この作品における「車に乗って逃避行を行い、心情の変化を見せる主人公」という要素と、「置かれている現実から抜け出すことが出来ない主人公」という要素を見れば、この作品はロード・ムービーの技法を利用した映画作品であると捉えることができる。

 この作品はワンダが妹夫婦の家で目覚めるところから始まる。作中では詳しい状況が明かされないが、エンドロールのキャストの配役を見れば、この場所が妹夫婦の家であることが分かる。彼女はすでに自分のホームから追い出されている。彼女は「何もない」炭坑を歩きながら裁判所へと向かう。虚無の風景が広がる炭坑の風景を背にして、ワンダの心情や喪失、彼女が置かれている状況がそのままに表されている。ワンダは離婚調停に遅刻し、頭にヘアカーラーを巻き、煙草を吸いながら裁判所に登場する。

 ワンダは離婚調停に対して、一切の異議を唱えないままに、彼女は現実的にホームを失ってしまう。ワンダは自分が持っていた家庭に対して、「自分がいない方が良い、子供たちは元夫といた方が良い」と言う。ワンダは自分が妻として、ひとりの女性として駄目な存在であったことが分かっている。それでも彼女は自分としての在り方を変えることが出来ない。この後に賃金の交渉をするために仕事場に向かうも、縫製工場のオーナーから首切りを宣告され、仕事を失ってしまう。

 家庭を失い、仕事を失ったワンダは喪失さを漂わせながら、街を彷徨う。その中で印象的に画面に映るのは、ショッピングモールで衣料品店のマネキンをワンダが見つめるシーケンスである。このシーンにおいて、マネキンたちはとても煌びやかに美しく着飾られている。このマネキンたちは、当時のフェミニズム観から見た「強い女性」たちとして表されている。「強い女性」たちは自ら行動し、自らの意思を持っている。「弱い女性」であるワンダのような女性には自らの意思がなく、ただ存在し、ただ生きているだけなのである。「強い女性」たちには花があって、「弱い女性」であるワンダ側には花がない。

 彼女はふらりと入った映画館で持っていたお金をも誰かに盗まれ、失ってしまう。何もかもを失ったワンダは酒場へと向かう。ワンダは酒場で強盗をしている最中の男と出会う。ワンダはお金とともに、櫛も盗まれたことに気がつき、男から櫛を借りる。ここから、彼女は自身の容姿を気にしている、つまりは良く見せようとしており、良く見せないと生きていけない存在であることが分かる。そして、男と特に何かやり取りがあるわけでもなく、あくまでも自然に彼女の旅が始まる。その男は根っからの犯罪者で、父親からは半ば見放されている。全てを失ったワンダは犯罪者の男に導かれて、その人生をゼロからやり直し、自らが置かれている現実から抜け出そうとする。

 彼女のロード・トリップは、物語の開始と同時に始まっている。そして、ワンダが男と逃避行を始めた時に、この物語はロード・ムービーとしての性質を強めていく。この作品で描かれる銀行強盗は計画から見ても明らかにお粗末な内容で、その状況が綿密に描写されない点から見ても、この作品の主題ではないことが分かる。この作品の主題はワンダが置かれている現実から抜け出すことであり、また、彼女の女性としての自立である。何の欲も持たず、ただ存在し、ただ生きているだけのワンダに男は「そんな奴は死んだ方がマシだ、お前はアメリカ市民ですらない」と言う。この物語において男はワンダの父親的な側面を持ち合わせており、「何かを成し遂げて欲しい」と言う思いから、男はワンダを銀行強盗に引き入れる。

 物語の中盤に、男はワンダの着ていた服を捨て、ヘアカーラーを捨て、ルージュを道に投げ捨てる。ワンダは新しい服を着て、頭には花飾りを付けている。白いドレスと白い花飾りはどこか舞台衣装のように見える。ワンダは「強い女性」たちの象徴である花を頭に纏う。銀行強盗という彼女の晴れ舞台を通して、彼女は意志のある「強い女性」に生まれ変わろうとしている。

 銀行強盗という晴れ舞台を目前にして、ワンダは「私にはできない」と言い、それを巡って、ふたりは喧嘩をしてしまう。このシーンでは犯罪者の男とワンダの関係が変化していることが表されている。クッションをお腹に入れる彼女は妊婦を演じているように見え、ふたりの間に疑似的な夫婦というものが形成されていることが分かる。ワンダは犯罪者の男との間にホームというものを見出したのである。

 銀行強盗という晴れ舞台が始まる。男の車について行くワンダであったが、彼を見失ってしまう。計画を練ったはずの銀行強盗は簡単に失敗してしまう。警官との銃撃戦の末に男は射殺されてしまう。男との間に擬似的な夫婦を見出していたワンダは、ホームを失い、路頭に迷ってしまう。銀行強盗は達成されず、自らを導いてくれる男を失ったワンダであったが、この逃避行を通して、ワンダは初めて自分の意志を持つ。路頭に迷ったワンダは酒場に行き、ビールを飲んでいる。酒場に置かれたテレビからは強盗事件のニュースが流れている。彼女はそこで出会った男に車で送ってもらう。目的地についた時、男は車上でワンダにキスを迫り、彼女を襲おうとする。ワンダはそれを拒否し、男に抵抗する。今までのワンダであったら、それを受け入れていたはずで、彼女はここで初めて自らの意思を見せるのである。森の中に逃げ込んだワンダはそこで悲嘆に暮れてしまう。

 ワンダは自身に何か困ったことがあると、酒場に行く。男に酒を奢ってもらい、気が向けば男と寝る。仕事を失った時、お金を失った時、ホームを失った時。この手段は彼女の中で常套的に行われてきたことであり、「酒場に行けば何とかなる」という彼女の考えである。しかし、ラストシーンではやって来た酒場の前で足を留める。ここに観客は彼女の成長を伺うことができる。彼女は酒場に行っても何も解決しないことを悟ったのである。それでも、彼女は酒場の女の子に声を掛けられ、男たちのパーティに参加をする。このシーンの中でワンダは男たちと話しているわけでも、男に肩を抱かれているわけでもない。ただ男たちに囲まれてひとり存在している。

 男たちの中のワンダという画は、ワンダが置かれている状況をそのままに表し、男性が優位にある社会構造における、フェミニズム観から取り残されてしまった、何処にも行けない「弱い女性」たちというメタファーとなっている。ここにフェミニズムの限界が描かれ、また弱い立場にいる女性たちの行き場の無さが表されている。

 彼女は煙草を吸いながら、深く考えに耽っている。彼女の心の強い痛みが画面を通じて観るものに伝わってくる。ある瞬間にシーケンスは静止し、エンドロールが流れる。彼女は静止したままに観るものの脳裏に強く焼き付いている。彼女の物語は終わることが無く、永遠に続いていく。

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